学習コストが本当に完全にゼロになるんだったら、アーキテクトだけが知っていて他の人は知らなくても良いとか、と言えるんだけどそうじゃないし、作る人が使う道具をちゃんと知っていることと言うのは、大規模になればなるほど重要だと思います。むしろそこ(技術)で止まってしまっては何にもならないというか、技術をドメインとしているアーキテクトであればそこに注力して追求して行くことも必要でしょう。でも、ソフトウェア開発はアーキテクトだけで成り立っているわけではなくて、業務SEだったり、開発チームのリーダーだったり、プログラマーだったり、QAチームだって居る訳で、様々な役割の人が居る。そしてその人達は、それぞれ同じプロジェクトという枠の中で異なるドメインを相手にしている。
それぞれのドメインでベストを尽くして行くためには、道具(技術)の扱いで悩むのではなくて、本当の目的を解決する手段で悩んで欲しい。そこに時間を割けるように簡単で、正確に、バグが出にくく、柔軟なシステムを作れる環境を作って行くのがアーキテクトの指名なのかなと、いまは勝手に思っています。決して、手段を目的にしてはダメ。それだけは「絶対に」してはいけない。手段を目的にしているうちは、なんちゃってアーキテクト(アマチュアだと思う)。だから、自分は少なくとも目的を見失わないで、スッと使っている手段を用意していくのが当面の使命だと考えるようになった。
その上で教育は必要だと思う。ただそこを減らして行くための努力はしないといけないなと。だから何となくこの手段でやりたかったから、と言うのは無いかな。
去年、本当に自分自身の無力さと言うか、人ひとりの出来る事と量を悟ってから、考え方が変わったな〜、と自分でも思う。
でも前に比べて考え方がクリアになったし不快じゃなくなった。色々な人が世の中には居るし、合う合わない抜きにして、そういう人たちと一緒に力を合わせてやっていかないといけないし、それぞれがベストを尽くせるようにしていきたい。その下地を用意していくのがアーキテクトの使命なんだろうな。
今日よりもより良い明日に向けてちょっとずつでも、いまの環境でも粛々とやっていくしかない。
考え方と目標がはっきりしたので、根幹にある信念はブレないし、悩む時にもポリシーが出来た、そして折れることも無いと思う。(鼻がおられるとかはあるかもしんないけどさー)あとは、今の会社でそういうポジションを確立できるのか、と言うところに尽きる。出来る限りのことはするつもりだけど、こればっかりは自分で何とかという話じゃないんだよね。
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